平成30年度第2回ブランド委員会(報告会)
※県立博物館・美術館主催「沖縄が誇る家宝の三線展」の関連催事として位置づけ
日 時:平成31年3月2日(土)
場 所:沖縄県立博物館・美術館 3階 講堂
参加者:大城學、鈴木修司、谷口真吾、比嘉康春、平田大一、園原謙、照喜名朝一、
知名定男、大工哲弘、宮沢和史(ブランド委員・敬称略)/渡慶次道政・仲嶺幹(三線製作事業協同組合)
(発言順に掲載しております)
仲嶺 幹
【ブランド委員会概要】
現在三線は沢山普及しているが、実は海外産の低価格帯の三線が多くを占めており、県産三線の置かれている状況は極めて厳しい。
このような状況下において、三線業界が発展し技術技法を維持・伝承していくために、県産三線をブランド化しようと、今回の取り組みを3年間つづけてきた。
今回の取り組みの大きな柱は団体との連携の強化である。
沖縄県立博物館・沖縄県立芸術大学・県、国、市町村、行政機関、演奏家と情報を共有し共に取り組んできた。
【三線が国の伝統的工芸品に指定されるまで】
①組合では国の伝統的工芸製品の指定をめざし、3年間調査してきた。平成30年6月25日付けで経済産業省へ書類を提出し、同年8月16日に経済産業省指定小委員会でのプレゼンテーションを経て、同年11月7日に三線が国の伝統的工芸品指定を受けた。全国では232品目、県内では16番目の指定になった。
②伝統的工芸品の五つの要件
1、主として日常生活に供されるものであること。
2、その製造過程の主要部分が手工業であること。
3、伝統的に使用されてきた原材料(百年以上の歴史を有す。)が主たる原材料として用いられ、製造されるものであること。
4、伝統的に使用されてきた原材料、100年以上の歴史を有する。
5、一定の地域において、少なくないものがその製造を行い、またその製造に従事しているものであること。
生活必需品ではない楽器の指定は難しいといわれる中、組合では、保有率を電話アンケート調査し、県民(成人)の保有率が0.79挺という数字を算出し、もう少しで県民一人1挺という高率を確認した。0.79という数字は沖縄の車の保有率とほぼ同じであり、三線が沖縄県民の生活に溶け込んでいることを裏付けた。
【「三線」伝統的工芸品 100年以上の技術・技法について】
①爪裏取り・・棹と胴との接合部分の微調整
②「トゥーイ取り」・・音面の微妙な高低差の加工で、楽器として良音の演出を行う。
③クサビ張り・・その日の気温や湿度、皮の厚みやクセを考えながら、ウロコの目の開き具合や細かい繊維の切れる状態を見極め、目標の張り具合まで皮の表面を指先で弾き、音を聴きながら微調整していく。
④漆塗り・・・本漆を使用していること
これらの伝統的な技術技法を用いて、伝統を守り、さらに発展させることが国の伝統的工芸品の条件。そして産業的にも発展させなければならない。
海外産との区別化と品質の向上、またメンテナンスの機会を全国で持つということも視野に入れ取り組んでゆきたい。
また、後継者育成については5年間で3名の職人を育てる目標を決め、共同作業場の確保も目指す。
しかし、これらの取り組みは組合だけで解決することは難しい。行政機関や森林組合、その他の関係団体と連携を引き続き強化してゆきたい。
第2部 前半 各専門委員によるクロストーク
【大城委員、鈴木委員、谷口委員、平田委員、比嘉委員、園原委員の6委員が各10分で自身のテーマで話す。】
(発言順、敬称略)
大城 學
『三線を取り巻く状況、歴史や芸能など文化での三線の役割について』
1.三線の伝来
1392年、中国福建省閩江周辺の人民である〈閩人三十六姓〉を琉球へ賜った際に、「始メテ音楽ヲ節シ礼法ヲ制ス」とあり、この音楽は三線と考えても良いのではないか、つまり閩人三六姓が三線を携えて渡来したのではないかという考え方がある。また、『南方記伝』に、1402年に琉球船が武蔵の国(現、神奈川県)の六浦に漂着した記事に「船中音楽ノ声有リ」とあって、この音楽に三線がかかわっていたのではないか、とする見方もある。
1372年に琉球は中国(明国)と初めて君臣の関係を結んでいること。そして、三線を含めた三弦楽器は棹と胴の部分が分解できて、持ち運びに便利であることから、琉球と中国が進貢関係を開始してから早い時期に、中国から琉球に三線が伝来したと考えるのは、さほど無理なことではないと思われる。
2.三線を家宝とする考え
三線は、沖縄においては単楽器としてでなく、それ以上の存在感がある。つまり、沖縄の人たちの心を支え、家宝として先祖代々引き継がれているのである。
1939年8月5日に首里城南殿において、〈三線供養〉が行われた。沖縄には三線信仰的な存在として三線がある。
3.三線と芸能
三線は当初、士族層に普及したと考えられる。王府の文化であったのだ。三線が琉歌と結ばれて琉球古典音楽が誕生し、さらに琉球舞踊、組踊と結びつくのである。
その後、地方の民俗芸能の楽器として主役を担った。また、三線音楽は遊郭にも普及し、遊郭の女性たちが三線を演唱した。こうした芸能環境の中で三線は普及していったのであろう。
私の持論だが、三線がなければ琉球芸能は現在の状況とは違い、別の道を歩んでいたであろう。
鈴木 修司
『沖縄の工芸業界の現状と未来について』
【沖縄の工芸業界の生産額、従業者数推移】
調査開始から昭和57年がピーク、現在は生産額で約30%減少、従事者数約50%減少。基本的には右肩下がりで、全般的には厳しい業界である。
【沖縄の工芸業界の現状】
注文に対して生産が追い付いてない。沖縄の工芸は、売れているが注文に対して供給が追い付いていない。
なぜ右肩下がりか。それは労働に対して職人への収入が少ないという問題がある。それが今、現在の後継者不足という伝統工芸界の大きな問題につながっている。売れているのに、運営が楽ではない。ここに工芸業界の根本的な問題がある。
例えば織物業界。時給換算にすると200円とか300円程度。
良いものを作るのはもちろんだが、販売する・情報配信するなど売る仕組みを職人が取り組まなければ商品の価値を上げる、物を売るということは難しい。
【沖縄の工芸業界の未来に向けて】
未来に向けて、まずは職人が安心してものづくりができ、後継者を育成できる売上と利益を確保するということが非常に重要。
三線を含めた工芸職人は、将来に対してどこか不安を抱えながらものづくりをしている。
解決に向けて、しっかり利益を出す。それはお金持ちになることが目的ではなく、三線文化を継承するために経済を担保するということ。
そして文化と経済のバランスをどう取っていくのか。三線には素晴らしい文化がある。ここに経済の概念を入れ、経済を回していく。
三線のブランド価値を高め、職人の収益改善、待遇改善、社会保障へつなげていくかということが大事。
そして商品開発をし、販路開拓をするなど、文化を継承、発展させるために、経済を回す仕組み作りや活動を、ぜひ三線組合で担っていただきたい。
谷口真吾
『くるちという材について』
【くるちの分布と現状】
〇鹿児島南部、奄美群島以南の南西諸島に生育する→奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島、沖縄島、久米島、宮古島、 石垣島、西表島、波照間島、与那国島
〇鹿児島県南部、奄美群島の「くるち」は、沖縄島から移入した植栽木。天然木として自生しない。
〇在来種として自生する沖縄島から宮古島、八重山諸島(先島諸島)が日本国内における分布の中心。
樹形や樹姿の重厚な風貌から街路樹、公園樹、庭園樹、緑化木の植栽利用が圧倒的に多い。
台風、強風害や潮害にも強く防風林、防潮林に植栽され、防災樹としての植栽も多い。
直近5年間、沖縄の中での街路樹の構成比の中で琉球黒檀は全体の10%。西表、石垣島の山林にはいくらかあるが、そこまで多くはない。
【くるちの特徴】
琉球黒檀は、最大樹高は8メートル。直径は50センチが最大と言われている。
1年間に10センチから15センチぐらいしか成長せず、太さが1年間に4ミリから5ミリしか伸びない。成長が遅いというのが特徴。
琉球黒檀の場合、細胞壁にリグニンが沈着し、密度がある。それが材の重さ、固さにつながっている。1センチ立方の重さが1グラムを超え、水に沈む。
【くるちを植栽し、三線(琉球文化)を未来に継承する】
くるちの黒い芯がどのように発生するかは、今の木材科学、材料科学、細胞科学では分かっていない。私は環境からのストレスが一つの要因と考える。
環境からのストレスが高いほど、黒檀材の中心の黒い部分が多くなる。ストレスで成長はかなり遅くなるが、黒檀自体が自分の体を支えるために、細胞の数を増やし厚くなり、材の重さが増加するのではないかと考える。
人工的に黒い部分を増やす研究は世界中でされているが、うまくいっていない。
三線文化、琉球文化を未来に継承するために、特別な材として使われてきた黒檀は、今世界的規模で入手できなくなっている。八重山黒檀と言われる石垣市を中心に生産されるような資源も伐採できなくなり、世界の黒檀の生産国では、黒檀が保護され、国外の輸出禁止となっている。世界規模で黒檀材は枯渇している。
植えることはできる。しかし、100年も200年も継続して黒檀の造林地を守り、育てることは至難なこと。黒檀材の増産する挑戦は、これから始まる。
比嘉 康春
『三線組合と沖縄県立芸術大学の連携事業について』
沖縄県立芸術大学は、沖縄の伝統文化の継承と発展が大きな役割である。
三線は、琉球芸能の根幹で、どんな芸能であっても、やはり三線が中心になっている。その三線の普及やブランド化について芸大として何かお手伝いができないかと組合と協定を結び、お互い知恵を出し合って取り組んでいる。このような取り組みや、県産品のすばらしさを多くの人、とりわけ若者へどのように知らせてゆくか模索し昨年度は、オリジナル商品の開発に取り組んだ。
【三線組合オリジナル商品の開発・デザイン】
デザイン工芸学科の大学院生が三線組合の事務所へ出向き、三線の歴史、三線の構造、どのような年齢層に県産三線が普及しているのか学んだ。そして沖縄の三線の普及の現状、とりわけ年間4万挺が市場に出回っているといっても、その1割しか沖縄で生産されない。そういった現状を多くの人に知ってもらうために、販促ツールを作って普及に役立てたいという事になった。現在、大学院生3名でデザインを考え、バッグ、手ぬぐいなどを手掛けている。
【今年度の取り組み】
今後はそういった販促ツールだけに限らず、三線そのものに細工を施すなど、楽器として見栄えを良くするようなデザインも考えていくと三線の普及に役立つのではないかと考える。また、本学には漆芸コースもあるので、本漆を使った本物の三線をもっともっと広げていきたい。
平田 大一
『三線のブランド力向上にむけた二つの提案』
私くるちの杜100年プロジェクトという取り組みを2008年から行っている。
ここでは大きな仕事が二つあり、一つは月に1回くるちの杜のメンテナンス、草刈りをしている。もう一つは、年に1回、くるちの育樹祭、祝樹祭のイベントを開催している。
今日は私から新しく2つの提案をさせていただく。
【県内産三線のブランディングにむけたNECとの協力】
三線組合より今後の展望について、海外産との区別化っていう大きな課題と、後継者育成、さらには三線メンテナンスの力をつけていくというようなことがあった。
この点につい提案したい事項はNECの技術を用いたICチップの活用である。
三線の情報をICチップに入れ込み(修理の履歴、製作年月日、保証の内容、さらには原材料の産地、製作者情報等)小さいシールにし、三線に張り付ける。そして三線にiPhoneをかざすと情報が出てくるといった仕組みである。ICチップの良い点は、簡単に書き換えができない、さらに入力できる情報量が今までよりも増え、より多くの情報をもって県産と海外産の区別をするための情報を書き込むことが可能である。
私はブランディングのポイントは、見た目は変わらず中身は最先端であること。インパクトがあってユニークであること。
さらには、「古くて新しいがかっこいい」という事を実現できれば大変面白いと考える。
しかし、三線シールを貼ることによって影響が出ないかなど課題は多くあるので、実証実験を重ねなければならない。
【くるちの杜の移植ファンドの実現】
もう一つの提案提言は、くるちの移植である。
くるちの杜事務局には、くるち所有者より移植して引き取ってくれないかという問い合わせが増えている。100年未満のくるちを移植し育てることができれば100年待たずに、材料としてのくるちが手に入るかもしれない。しかし移植にはかなり予算がかかるので、材の枯渇についても三線職人の皆さんの課題に向き合い、効果的なアイデアを出し、実証実験しながら、ユニークでインパクトのある取り組みができたらと考える。
園原 謙
【王国時代(19世紀)の三線製作者4人を紹介する。】
① 渡慶次(1825年)
・徳之島に伝来する直富主三線(真壁型)
・今組合の理事長も渡慶次さんだが、実はその渡慶次さん伝いに、昨年の10月に発見された三線で、胴内に「道光乙酉」(1825年)と「渡慶次作」の銘が記されている。
② 蒙氏糸数(糸数昌常)(1853年)
・源河ウェーキ三線チーガの細工と銘記
・1853年、ちょうどペリーがやってきたころの三線。
・胴内に「咸豊三年」「癸丑二月吉日」、「蒙氏糸数作」、「糸数昌常作」の銘が記される。
③ 渡慶次筑親雲上(1860年)
・盛嶋開鐘のチーガの細工と銘記
・これもまた渡慶次という人の作品で、最初の1825年の渡慶次とどういう関係があるのかは、今後の研究を待たないといけない。
・胴内に「咸豊拾年庚申八月吉日」、「渡慶次筑親雲上作」の銘が記される。
・ここでは役職名があって、先ほどは渡慶次という苗字だけだったが、ここでは筑親雲上という王府の役人の名前が記されている。
・尚家伝来の三線で、胴内部に凹凸状のみごとな細工が施されている。CTで撮ると非常に複雑な胴の構造を持っていることがわかった。
④ 昌煌(1909年)
・旧松山御殿所蔵鴨口與那三線、壱名「壱石」
・那覇市歴史博物館が所蔵の三線で、吉日という記述が残っている。三線が生まれる日は、まさに吉日であるということがよく分かる。
【21世紀の三線製作者(沖縄県三線製作事業協同組合の組合員)】
・組合で探してきた、蒙氏糸数(又吉)家の系図によると糸数が、その後又吉に名前に改名し、戦後ご活躍された又吉昌裕さんへつながっていくということがわかった。
・また、沖縄戦後の組合活動の記録は、「琉球三味線(作家)組合」が『琉球三味線寶鑑』の広告欄に紹介されていることから、少なくとも昭和28年には発足していたことがわかる。それは、戦後、命をながらえて三線を作り始めた方々の記録として理解できる。
・私は今こそ、戦後から21世紀に活躍する三線製作者とその技術継承も含めて記録保存をしていかないといけないと考えている。
【王国時代に失われた三線の製作技術】
・東京国立博物館の所蔵している明治17年所蔵の蛇皮線(三線)の棹のCT画像を分析すると、4カ所で接がれていることがわかった。なぜ継棹がされているのか非常に疑問である。
・現代の実演家は、棹が継がれている三線は好まないため製作者もわざわざ継棹三線を作ることはない。
・しかし、実は王国時代は、棹材が貴重な黒檀であるということ、これ有効に活用するために、継棹により材を有効活用していたのではないかと考えられる。
・おそらく多様な継ぐ製作技術があったのではないかと考えており、現代においても、材が枯渇し、少ない材をどのように活用していくのか、これらの技術を見直し、継承していく事も必要ではないかと考える。
第2部 後半 各専門委員によるクロストーク
【前半の委員6人に加え、照喜名委員、知名委員、大工委員、宮沢委員4人の実演家の委員を加え、短時間であったが、全委員10人が壇上にあがりクロストークを行う。時間が少なかったため、後半参加委員を中心に話をしてもらう。】
(発言順、敬称略)
照喜名 朝一
【三線楽との運命的な出会い】
私は小学校4年のころから三線を始め、ドレミファから始まって、今は古典まで弾けるようになりましたが初めは自己流で三線をやっていました。
ある日、一緒に仕事をしていた兄に突然「三線を本格的に習ったらどうだ」と言われました。
「お前のやってるのは我流だよ。本格的にやればもっと上手になるから。」と宮里春行先生のところを勧められていました。
しかし、私は古典も組踊も地元でやっていたので、別に三線は習わなくてもいいと思っていました。
その頃のある夜、私はパチンコで給料の全部をすられて、心寂しく、いつもは通らない道を歩いて帰っていました。すると、急に三線の音が聞こえてきたのです。
そこで「こんばんわ」と尋ねた先がなんと、宮里春行先生のお宅でした。
「照喜名です」と言ったら、「お前、朝一か」「はい」「君のお兄さんから君のことを聞いている」「どうぞ、入って」と、その日からすぐ入門しました。
偶然とはいえ、このような引き合わせはとても不思議な体験でしたが、私の人生を大きく変える出来事でした。
人はそれぞれの人生の道を迷いながらも歩み、そして多くの人と出会い、切磋琢磨するからこそ、得られるものが沢山あるのだと思うのです。
もしもあの夜、パチンコで負けていなかったら、私はあの道を通らなかったと思うのですが、おかげで素晴らしい先生に出会え、三線の道を歩み、今日につながっていると思うと、とても不思議なものだと今でも思うのです。
知名 定男
【戦後復興の原動力は歌三線、その心を次代に伝えたい】
僕は生まれたときから、三線が子守歌代わりになっていましたので、おそらく生まれたと同時に三線に関わってきたと思います。沖縄の三線、これを未来に向けて、あるいは担い手を育てるという事に関して、私は特に若い人たちにどうやって訴えていけばいいか考える。
戦後沖縄が打ちひしがれ、路頭に迷ったときに、歌三線、三線音楽がなければ、今の復興はなかったのではないか。私は音楽で楽しみ、音楽で忘れ、暮らしの中に強く密着していた三線音楽というものが、戦後の復興を早めたと思うのです。
「うちなんちゅ」の中には歌心があったと。「うちなんちゅ」は心優しい。また、「沖縄タイム」という言葉がありますが、「沖縄タイム」というのは、なにもだらしないという意味ではないのです。これは、相手のことを重んじて「沖縄タイム」と言う。「テーゲー」という言葉もあります。「なんくるないさ」という言葉もありますが、これは強さとつながるような気がするのです。こういうテーゲーの精神、三線を愛する気持ちで、ここまで復興遂げてきた。このアイデンティティは素晴らしい。こういうことを、僕はこれからの若い人たちに語り継いでいくことも大事だと思うのです。三線には、代々大事にされてきた先祖の魂が宿っている。こういうことも含めて、やはり音楽を聞かすということも大事ですが、身近な人が語り継いでいくということも私は大事だと思っております。
大工 哲弘
【13祝いでの三線との出会いと三線のメンテナンス力の向上】
私が三線をはじめたきっかけは、僕の13歳のお祝いに、おじいちゃんが同級生を我が家に集めてパーティーをひらいてくれて、皆さん集まってきてくれた。「三線弾こうね」と弾いてくれた歌は、当然おじいちゃんの歌う歌だから民謡だと思っていたら、それがなんと童謡だった。それでみんな動揺してしまって(笑)
このとき私は三線って身近なものだと感じ、もしかしたら自分も弾けるかもと思った。そしてパーティーが終わった翌日から、三線にのめり込んでいった。
その時代、若い人で三線を弾く人は少なく、私は「これはおかしいじゃないか」と、高校で三線クラブを作ろうと思い、1968年、私の出身校、名門八重山農林高校で郷土芸能クラブというのを創部した。その活動内容は、沖縄本島で活躍されていた当時の山里勇吉先生の耳に入り、その後内弟子となり今日にいたっている。
今後の沖縄の伝統三線をどうしたら普及活動につなげていけるかということについてひとつのエピソードを紹介する。
県外の方が沖縄本島に来て、三線を求めて買ったそうである。そしたら、その三線が虫に食われたり、カラクイを締めた途端に棹がぽかっと折れたなどと聞いた。
そういう三線が売られて、使われているのです。沖縄の伝統の三線がこういう安っぽいものになってしまうというのは、とても悲しいことであります。
是非今後はメンテナンスや取扱説明書も作成して、消費者にこれを提供してくことも必要かなと思います。組合も三線を売ったらおわりということのないように消費者のサポートをお願いしたい。
宮沢 和史
「『島唄』の功罪―三線が広まった功と、材が枯渇し海外産が流入した罪」
1990年の初頭。見渡すと沖縄の音楽とポップス、ロックを融合するという若い人たちがいないことが非常に不思議でした。定男さんがネーネーズ立ち上げるころだと思いますが、定男さんはボブ・マーリーとか、レゲエなどに影響されて、それと民謡をどう結び付けていこうかって試行錯誤もされていたように思う。
先輩方がそういうアプローチをしているのに、どうして若い人たちはしないのか、不思議でしょうがなかったですね。じゃあ、僕がやろうっていうことで、「島唄」の楽曲を作った。それはその一つということになります。
しかし、そのあといろんな試み、アプローチが出てくるので、きっとその扉が開かなかっただけだったと後にわかった。
「島唄」を作ったのち、「沖縄ですごく売れているぞ」という話になって、三線を習う子も増えて、外国人も三線に興味があるというニュースを聞いて、とても驚いた。
この頃、3千人の三線奏者を奥武山スタジアムに集めて演奏するというイベントがあったが、このとき三線が沖縄の店から全部消えたっていうぐらい三線が売れたと聞いた。
若い人たちが三線に目を向けるきっかけに「島唄」がもしなっていたとすれば、光栄なことだし、何か恩返しができたっていう気持ちもありました。
それから10年ぐらいして、三線の職人の方と飲んでいたら、「宮沢くんね、『島唄』っていう歌を作ってくれてどうもありがとう。あれで三線を弾く人が増えているよ。でもね、あの歌のヒットの後からなんだ、外国からの三線材の輸入が始まったのは」と聞かされました。
要するに、三線が広まったのはいいけれど、材料が枯渇してしまった。
その方はお酒の場でのジョークのつもりだったと思うが、でも私は笑えないなと思った。
それで土地を買って木を植えていこうかなっていうことで考えていたのですが、調べてみるとくるちが育つには100年、200年かかるという。これは自分一人の力では無理だと悩んでいた。そんな時に平田さんに相談しまして、現在のくるちの杜の活動に繋がった。
実は平田さんと僕は、三線組合に数年前に飛び込んで、三線を一緒に作ったことがある。三線を作ったことを経験して思ったことは、この木は本当に育つのがゆっくりで、大事で貴重で三線に向いている。しかし三線をすべて黒檀にしようというのはどう考えても無理だと同時に思うようになった。
職人は「今まさに」三線を作る材料が必要なわけで、100年以上待つことはできない。くるちの成長を待つ間に三線製作の技術が途絶えてしまうのではないのか。
そこで僕の意見として、くるちに代わる素材を探していく試みをしたいという事を3年間、意見してきた。
谷口真吾
くるちが最もいいっていうのは皆さん認識されていると思いますが、技術の伝承という意味では、堅い木を用いて、製作技術の伝承をすることが必要になると思います。堅い木を代替木として探す必要はあるが、ソウシジュやモクマオウなどは十分供給の目途はたつのではないかと思う。
比嘉 康春
今の若い人たちにとっては、私たちが味わったような、方言の影響はまったくなく、むしろ他の専攻からも、琉球芸能専攻は琉球の音楽、文化を大切にしていて羨ましがられている。
また、姉妹校の台湾、中国福建省の芸術大学と沖縄県芸の伝統芸能教育の話をすると、あちらはどちらかと言うと洋楽と伝統が一緒になって新しい音楽になっているといいます。
沖縄県立芸術大学ではまずは基礎的に伝統をきっちりとやって、そこからまた新しい創造的な芸能を教わっていく。若い人たちが沖縄の芸能に誇りを持ってつないでいくということについては、非常に頼もしく、希望を持っています。
鈴木 修司
工芸品のビジネス展開について、決定的な打開策っていうのはない。県内外、全国の工芸会が模索している現状だと思う。
ただ、私たちの会社で進めているのは、商品をどうブランド化するかという事。
ブランド化するっていうのは、見てくれを良くするとか、かっこよくするとか、ビジュアルを良くすることではなくて、本質的に物の価値を上げていくってことだ。
また、経営的な話で言うと、利益率を上げることも考える。例えば1個の商品が売れたときに、今までは職人に1万円入ってきたものを、どうやったら1万2千円とか、1万5千円とか、2万円にできるのかを考える。
そのためには売値を上げる。伝統工芸の世界は殆どを人件費が占めるので、原価を下げるっていうのは非常に難しい。原価を下げると、また海外での製造という話になってきてしまう。
県内で物を作り職人の給料を上げる、付加価値を上げるために販売する。
それをとにかくひたすら追及していくしかないっていうことですね。
日本の場合は、大体織物の世界で言うと、職人が出荷して、大体5倍から10倍の値段の付加価値が付くが、フランスとかヨーロッパのブランドになると、大体100倍ぐらいに付加価値つけて出荷される。したがって、職人が食べていけ、育ちやすい環境。ヨーロッパっていうのはいろんな人たちが集まって、その物に付加価値をどう付けるか徹底的に追及し、100倍ぐらいの価値を付ける文化が根付いている。
日本はまだそこが弱いので、委員の皆さんも含めて、みんなで価値を上げることをどうしたらいいのか考え、研究し、実践していくことが大事だと思っています。
園原 謙
僕は三線を西洋音楽で例えるなら、ヴィオリンに似ていると話すことがある。
実はそのヴィオリンの名器にストラディバリウスがある。その地元はイタリアのクレモナという町で、400年ほど経過したそのバイオリンの音の記録をしたいということで、クレモナの町が1カ月間、その音を収録するために、道路を閉鎖して、町の皆さんが名器の音の収録に協力するというようなニュースを目にしました。
まさに鈴木氏が先ほどおっしゃったように、ヨーロッパでは文化に対してそれだけの価値見出す風土があるのかと感じました。三線にもそのような薫り高い文化を醸成する必要がある。
第3部 実演家による実演
【演奏家仕様のモデル三線の披露】
コラボ三線の目的
・枯渇する黒檀の代替え材(県産)のブランド化の推進
・後継者育成の作業の確保
・プロのこだわりを広く伝えるため
・多く普及している、真壁型と与那城型以外の普及も目指す
・国頭森林組合から安定した材の仕入れができるため県産材を活用する。
■知名定男モデル概要
製作者及び説明者:三線工房いーばる(上原正男)
【聞き取り・イメージ】
・低音を重視した三線、柔らかく素朴な音色
・ゆっくりな曲を朗々と歌うイメージ
【型】
・南風原型
【棹】
・棹の太さ2.1㎝ 厚み1.8㎝
※棹の長さ48.4㎝(市販の三線より6mm長いのでより低音が響く)
【音色】
・低音を中心とした音作り
【胴】
・皮は中厚、張りは五分張り弱め
・チーガの内径を大きめに取ってより低音を響かせる
【塗り】
・艶消しの黒、艶消しのスンチー(昔の三線のイメージ)
■大工哲弘モデル概要
製作者及び説明者:尚工房(岸本尚登)
【聞き取り・イメージ】
・中級者、5年以上の三線演奏経験者向け ・2、3挺目の三線
・八重山の素朴な雰囲気
【型】
・知念大工型(天の筋はハッキリと)
【棹】
・棹の太さ2.3㎝ 厚み2.4㎝
・チブクル4.5㎝
【音色】
・高音を中心にした音作り
【胴】
・皮は中厚、張りは強め
・胴巻きの色は紫色
【塗り】
・艶消しスンチー塗り
【カラクイ】
・胴巻きと色合いを合わす
■宮沢和史氏モデル概要
製作者及び説明者:仲嶺三線店(仲嶺 幹)
【聞き取り・イメージ】
・これから三線を始める方も使えるような三線
【型】
・真壁型
【棹】
・棹の幅2.1㎝ 厚み1.9㎝
【音色】
・中音
【胴】
・人工皮と本皮が選べるようにする、人工皮の場合オリジナルの人工皮を作る
・胴巻き等、青をイメージカラーとする
【塗り】
・濃目のスンチー塗り