又吉恭平
「陸の孤島」そのように呼ばれている場所が西表島にある。その名は「舟浮」。同じく西表島の白浜地区から陸続きではあるが、その間が険しい山々となっているため、ここへは白浜港から出港する船でしか訪れることできない。人口約40人の小さな集落である。ここは豊かな自然があふれ、集落の裏側には「イダの浜」という自然のビーチがあり、集落内には、竹富町の天然記念物にも指定されている「カマドマのクバデサー」がある。このクバデサー(和名:モモタマナ)は八重山三大美女の一人と言われる「カマドマ」ゆかりの名木で、ここ舟浮に伝わる民謡《殿様節》はそのカマドマと殿様と呼ばれた役人との恋物語を題材に採った民謡である。
そんな舟浮で生まれ、この地を拠点に活躍する一人のアーティストがいる。沖縄音楽界では名の知れた歌手、池田卓さん(以下敬称略)だ。池田は歌と、三線を弾きながら活動しており、今年デビュー17年を迎えた。2017年12月には、12枚目のアルバムとなる新譜「舵(かじ)」をリリースしている。私は池田に話を伺うべく舟浮を訪れた。
海上から見た舟浮集落
池田との待ち合わせは彼の実家、ふなうき荘。待っている間、鳥のさえずりや、波の音に耳を傾けていると、遠くから車輪のガラガラという音がする。ふと後ろを振り返ると、そこにリアカーを引く長身で細身の男性が立っていた。その人こそ池田卓であった。リアカーには三線のケースが4つ並べられており、車の走らないこの場所ならではの運搬の術に新鮮味を感じた。池田はそんな私を気にする素ぶりを見せず慣れた手つきでリアカーを停め、「こんにちは」と挨拶。そして自然と席に座って「三線組合っていう団体があるんですね」とひと言。
ここから自然と雑談がはじまり、その後インタビューとなった。
三線との出会い
池田は1979年5月24日、舟浮で生まれ、中学生までここで育つ。幼いころはサッカー、野球など運動が好きな子供で、集落内の子ども達とよく遊んでいた。また家には小さい頃からピアノやギター、三線があった。「雨が降って外で遊べないときは、これらの楽器を弾いて遊んでいました」。池田にとって楽器を弾くことは遊びのひとつであった。三線は父のもの。彼の父は自己流で三線を嗜んでいた。小学校5年生のとき、小学校に琉球民謡の教師免許をもっている先生が赴任してきた。「当時、ぼくは三線に全く興味が無かったのですが、ケンカをしていた中学2年の先輩から、『三線クラブを作りたいから入れ、そしたら許してやる』。と言われ三線を習うようになりました」。三線は「遊ぶもの」。そう考えていた池田にとって、三線は「習うもの」では無かった。そして6年生に進級した時には八重山民謡の教師免許を持つ先生が赴任してきた。その先生から池田は民謡の奨励賞を受けることを薦められる。「賞を受験するとなってからは学校だけでは稽古量が足りなくて、夜に公民館でおばあちゃん達にまざって習っていました。演奏するとみんなが褒めてくれるので嬉しかったですね」。
池田卓さん
三線と距離を置く
奨励賞に挑戦し、そのまま三線を続けていくかに思えた池田少年。しかしある時から三線を人前で弾かなくなってしまった。「三線は中学校1年までは習っていました。2年生になると、周りの友達で三線を弾く人は誰もいなくなっていました。さらに、三線はおじいさんが弾くもの、みたいなイメージがあったので、人前ではギターばかり弾いていました。ギターが弾けるとカッコいいと言われるので(笑)。」ギターが弾ける中学生。確かにカッコいい。今だからこそ三線も弾けるとカッコいいと言われるが、当時はそんな雰囲気はなかったようだ。
中学を卒業すると、池田は進学のため舟浮を離れる。西表には高校がないからだ。池田が進学したのは沖縄本島にある当時、甲子園出場校として名の知れた沖縄水産高等学校だった。「昔から野球少年だった僕は、野球に打ち込みたいと思い進学を決めました。高校では野球漬けの日々で、高校3年生になるまでは自分の聴きたい曲を聞くことができませんでした。もちろん三線を弾く時間は無く、高校生の頃は三線から離れていました。ですが今思えば、野球では野外での応援など、大きな声を出すため声量が鍛えられ、それが今に繋がっているように思います。」普通に考えれば野球と音楽は全く関係が無いように思う。だがしかし池田の豊かな声は野球に打ち込んだからこそ得られたものであった。
音楽の道へ
高校を卒業した池田は野球を続けるべく、沖縄国際大学に進学した。「当時は野球でプロになるつもりでした。でも途中からはプロになるのは難しいと考えるようになり、大学を中退しました。しかしそのことがきっかけとなって次第に音楽の道に進みたいと考えるようになりました。全く違った道への方向転換である。
そんな大胆と思える行動には、ある出来事が影響していた。「高校3年生の頃、一度舟浮に帰ってくることがあったのですが、その時にちょうど舟浮のお祭りがあって、そこで《殿様節》と《船浮乙女》という曲を演奏する機会がありました。この時、また昔みたいにみんなが褒めてくれたので嬉しくなりました。そして19歳の時、再び祭りで歌うことになったのですが、この時は西表島出身の歌手、まーちゃんの出演が決まっていました。彼はオリジナルの曲をいくつか作っていて、まーちゃんが歌うなら自分もオリジナルの曲で出てみようと思い、はじめて作曲をしました。その時できた曲が『島の人よ』です」。『島の人よ』は池田の代表曲とされる。なんと池田の処女作であった。
舟浮での演奏を終え、那覇へ向かう飛行機の中。何気なく開いた雑誌で、りんけんバンドのメンバーを募集する記事を発見する。「これは運命と思い、即決で応募することを決意しオーディションを受けました。結果は不合格でしたが…」。だが、音楽でやっていくと決めた池田の決意は固い。とにかく音楽がある場所で働けるならと思い、民謡歌手、饒辺愛子の営む「なんた浜」に電話をかけた。しかし、そこも人手が足りているとのことで断られてしまった。しばらくして友人となんた浜に遊びに行く機会があった。すると、店主愛子から「電話をかけてきた子ね?。舞台で歌ってごらん」と言ってもらった。歌を褒められた池田はステージに上がる機会を得るようになり、いつのまにか1ステージを任せられるまでになった。
ある時、池田は西表島の歌手、まーちゃんに質問をした「どうやったらCDを出せるの?」。するとまーちゃんから「誰でもCDを出すことができる自費出版がいいんじゃない」と薦められた。池田に迷いはなく、すぐさま行動を起こした。「この時は、前に作っていた『島の人よ』をCDにして母の誕生日に合わせて発売しようと考えていました。少しばかりの親孝行と思って。」
そしてCDは発売。しばらく経った頃、収録曲「島の人よ」がCMに起用されることが決まる。このことがきっかけとなり、池田はデビューを果たした。それから17年。池田は今歌手として活動し続けている。
舟浮の伝統を守る
父親が還暦を迎えたことをきっかけに、池田は舟浮に戻ってきた。もちろん、アーティストとしての活動はそのまま続けながら。白浜と舟浮を行き来する船の操縦や、ガイドとしての活動など島での仕事も行っている。
島の伝統行事にも積極的に参加するようになった。「舟浮では6~7月に豊年祭、10月ごろに節祭があります。節祭は小浜島、西表島の古見(こみ)、干立(ほしだて)にもあるようですが、他の所のものは一度も見たことがありませんね」。
祭りの中では歌や棒術、獅子舞、狂言、綱引きなどが行われる。「僕も幼少のころは棒術で参加しましたけど、当時は祭りの中で歌われる伝統的な歌には興味がありませんでした」。そう語る池田は、現在、伝統的な歌にも積極的に取り組んでいる。近年は長年舟浮で行事の地謡を務めていた泊亀吉からも指導を受け、八重山民謡を勉強しなおすとともに、集落に伝わる節祭の歌も学んだ。インタビュー中では特に語らなかったが、舟浮に戻ったのは、このような貴重な歌をしっかりと学び後世に残すことの大切を感じ始めたからなのかもしれない。世界のどこを探してもここにしかない行事や歌が舟浮にある。彼はアーティストとしてだけでなく、伝統文化の継承者という側面も持ち合わせている。
カマドマのクバデサー
愛用の三線たち
慣れた手つきで「ガラガラ」と音のするリアカーを操る池田の後を追って、ふなうき荘から、かまどま広場へと移動する。その姿はリアカーを引いているだけなのにカッコいい。
広場に着くと、池田は三線ケースから次々と三線を取り出した。
「これは最初に買ってもらった三線です」。そう言って取り出したのは黄色の人口皮が張られた三線。「これは三線をはじめたばかりの小学校5年生の時に買ってもらったものです。今は殆ど使っていませんが、思い出の三線です」。
さらにもうひとつ三線を取り出した「この三線は、ライブでも使用している三線です。銘苅春政さんの作品。知人から「良い三線を持っているね」と言われ銘苅さんが製作した三線と知りました。
続いて取り出された三線を見て驚いた。弦が黒い。「この三線は、父が持っていた黒木の材で、照屋林房さんにオーダーして作ってもらった二挺のうちの一挺です。僕は、かなり高めの調弦を好んで用いるのですが、普通の三線の弦だとすぐに切れてしまうので、この三線にはウクレレの弦を張っています。音色は少し変わってしまうけど、このほうが使い勝手がいいんです」。
また新たな三線を取り出す。「この三線はここ西表島で三線店を営んでいる奥田武さんの三線です。奥田さんは棹だけでなくすべてのパーツを全部手作りしていますが、中でもカラクイ(糸巻)に特徴があります。奥田さんは自分の作った三線にしかこのカラクイはつけないって言うんですが、お願いをして特別に作ってもらいました。僕が今使っている三線のカラクイは、すべてこの奥田型ですね」。
どの三線も池田にとっては思い出深いものばかり。三線の説明をする池田の表情はキラキラと輝いており、愛情の深さが感じられた。
池田卓のこだわり
(1)楽器へのこだわり
池田が最も好きな三線の型は、「真壁型」。「形がとても好きです。ライブでよく使うのは与那型の三線ですが、これは形ではなく、音が好きだから使用しています」。皮の張り方にもこだわりがある。「皮は緩く張るのが好きです。ぼくは高音で調弦をすることが多いので、あまり張りすぎていると音がキンキンになるんですよ。それに本土に行くと空気が乾燥しているので、ここよりも皮が張った状態になります。ここで緩いくらいが本土では丁度いい張り具合になります」。皮には人工皮や強化張りといった選択肢もある。だが池田は言う。「本皮の音が一番。破れる心配はあるけど、本皮の三線の音が一番しっくりとくるしカッコいいです」。
(2)演奏スタイルへのこだわり
池田の演奏時のスタイルには三線をギターを弾くように構える特徴があるように感じる。「良く言われます。先輩の新良幸人さんを参考にしています」。
三線にはストラップがついているが、ここにもこだわりがある。一般的に使用されるストラップはティーガー(胴巻き)を外し先っぽにひっかけ、またティーガーを巻いて、弦を張って…と面倒くさい。しかし池田の三線には本来三線のストラップが通っている場所に、紐を通した5円玉がついている。この5円玉を本来通すべきストラップの輪っかに引っ掛けると、着脱が簡単にできる。「これも新良幸人さんから教えてもらいました」。
また、三線を弾く右手にはギターのピックや、オリジナルのツメ(撥)を使用する。これは通常のサイズと比べてかなり小ぶりだ「これなら、自分の爪で弾くのと同じ感覚で演奏できます」。
(3)曲作りへのこだわり
池田はどのようにして曲作りを行うのか。やはり三線で作るのだろうか。
「昔は三線で作っていたのですが、三線だと曲の作りが似てきてしまうので、今はギターを使うことが多いですね。最新アルバムの『舵(かじ)』は、三線を使ってない曲が多いかもしれません」「だけどやっぱり自分の中では三線が最も大切な存在です。三線に対しては相棒という意識をもっています」。
インタビューを終えて
今回のインタビューを通して池田卓の三線との関わり方を知ることができた。池田の音楽が生まれる背景には特に舟浮での生活が大きく関係していると感じた。都会に住む私にとっては一見不便に感じられるこの場所も、人と自然とは常に一体であり、現代を生きる私たちが忘れてしまっている生活がここにはある。
どこか懐かしさを感じさせてくれる池田の音楽は、この場所だからこそ生まれるのではないだろうか。池田は普段、この舟浮に住み、音楽活動の予定があれば船で出ていく。その時、いつも一緒に旅をするのは三線であり、池田にとって三線はまさに相棒のような存在である。
これから池田は三線と共にどんな旅をするのだろうか。今後の活躍が益々楽しみである。