街中の三線工房
沖縄の建築業界をはじめ、近年ではデザイン部門にも、数多くの人材を輩出している名門・沖縄工業高校がある。
那覇市繁多川にあるのだが、朝や昼時、帰校する時間になると、高校生たちで狭い生活道路はいっぱいになる。
若さっていいなと感じてしまう時間帯だ。
しかし、高校向かいのスージ道を一歩入ると、工業高校前の喧騒とはうって変わって閑静な住宅街が広がる。
その中に溶け込むようにあるのが、渡慶次道政氏(以降敬称略)の三線工房。
約束の時間にギリギリ間に合ったのだが、顔を合わせた瞬間、ニコッと笑う笑顔が印象的であった。
三線との出会い
渡慶次が三線に出会ったのは、幼いころ。
「三線には、何か魅かれるものがあった・・・。父親が12歳の時に亡くなってるから、親父が、たまに家で酒飲みながら弾いてて、小さい頃から耳に親しんでるというか、染みついてるのかも。意味はわからんけどね。だけど、音色・・・それが好きだったんじゃないかな、考えてみると」
渡慶次道政は、1948年(昭和23)年、今帰仁村生まれ。そして6歳のとき那覇に移り住んできた。
「6歳のときからここに住んで、三線を始めたのは17歳。古典と民謡を習っていた」
古典と民謡の師匠は金城幸雄先生。
「この人は民謡も古典もしてる人。月謝、別々に払ったさ。
古典の場合は、25歳に新人賞取って、28歳に優秀賞と教師免許を取ったよ。25歳で新人賞を受賞するのは若い方だね。あの時分は、三線がそんなには認められていない時期で、中年以上のおじさんたちが中心だったからね。
今は誰でも三線自分で買って、弾くけど、あの時分は本当に好きじゃなければ三線しなかったはず。
私の年代だったらギターとか、フォークとかグループサウンズの時代だった。私だけ三線弾いてた」
三線に魅せられた人生といえるかもしれない。
職人の道に入る
渡慶次が三線職人の道に入ったのは、25歳の時。1973(昭和48)年のこと。
「17歳ぐらいから三線はやっていたわけ。弦が切れたり、どこかが悪くなったりしたら三線店に持っていくよね。それで通っているうちに、三線作りに興味が出てきて職人になったわけ」
渡慶次が言うには、車のタイヤがパンクしたら修理工場に持っていく。同じように、三線の調子が悪くなったら、三線店に持っていくのだという。そして、この三線店こそが、渡慶次の師匠となる渡名喜興進先生が営む渡名喜三線店であった。
同じ三線の道とはいえ、実演家と三線職人は、全く別の世界。25歳で三線職人の道に飛び込む決意とは、いかばかりのものであったかを聞いてみた。
「いやー。好きだからできたんでしょうね。小さいときから、ものづくりは好きだった。学校嫌いで頭は悪かったけど、一個だけ、手が器用だったからね」
と、三線職人として必須の素質を持っていたと語り。さらに、
「20歳から24歳まで軍にいたわけよ。軍作業員ね。牧港のキンザ―補給部隊に勤めていたんだけど、復帰(1972年)してすぐの人員整理に当たって辞めさせられたわけ。勤務年数が浅い人から順序よくね。私は4年しか働いていないからね。その時は退職金も120万円くらいあったよ」
当時としては多額の退職金を手にした渡慶次は、この逆境をプラスに考え、好きな三線の道に入りじっくりと修業を行うことを決意した。
「退職金以外にも、今の失業保険、その時は就職促進手当っていってたけど、それが3か年あったわけ。月に12、13万くらいあったからさ。大きいよね。だから、三線職人の見習い入っても、生活には大した影響が出ないと思うし、3か年は失業保険あるからね」
マイナスをプラスに転じる。まさしく渡慶次の場合がそれに当てはまる。もしその時、解雇されなかったら、三線製作の名工は生まれていなかった。
あえて、解雇されなかったらという仮定をぶつけてみた。
「そうだね。あの・・・生活の為にするんだからね。何をしていたんだろうねぇ。そのままずっと軍にいられたかわからないしね。やっぱり三線作っていたんじゃないかな」
やはり、三線職人になるべくしてなった方といえよう。
職人人生のスタート
渡名喜先生の工房は、那覇市壷屋の旧郵便局通りにあった。
「自宅からバイクで9時ごろに出勤して、先生は事故で足が、両足ないわけさ。まあ、買い物から掃除から、色々な雑用もやったよ。帰るのは夜の7時、8時くらい。若いからが出来たよ」
渡慶次が師匠から三線作りを任せられるようになたのは、1年が過ぎたあたりから。
「軍での仕事も木工扱う仕事だったから、今でいうカーペンター。だから、木を扱うのはあんまり苦労はしなかった」
そして1976(昭和51)年、渡慶次三線工房として独立し、自宅に工房を構える。
「先生からは足掛け10年習った。だから、三線に関することは、みんな習ったわけ。ウマグワァーから、えーっと、カラクイという糸巻き作りもね」
独立して自らの工房を構えながらも、師匠の渡名喜三線店に通う日々。渡名喜先生には、三線、糸巻き(カラクイ)、駒(ウマグヮー)、皮張り(クサビ打ち)の製作の全てを教えていただたことになる。
渡慶次にとっては、何物にも代えられない貴重な10年であったに違いない。
「自分の工房の仕事をしながら、わからないものを聞きに行ったりしたよ。今では、ウマグヮーを作る人は、私しかいないからね。これも渡名喜先生のお蔭だね」
さらに、
「自慢するな、一生勉強だから。先生が本当に言いよった。私も一生、自分で満足した仕事はしていないから。お客さんが評価するんであって、自分から自分のことを褒めたり、これはいい三線で立派に作れてるとか、そういう自慢はするな。それを教えよったよ、私に。なんの仕事にしろ、手作り、手で作るやつは、自慢したらいけない。人が評価するものであって、自分で評価してもしょうがないし。沖縄のことわざで『世間やてぃーいー』って、これが座右の銘。上には上があるの・・・あれと同じ意味」。
そこで、半世紀近くこのお仕事をしてきて、ご自身で満足できる三線はと聞いた。
「ない。あったらもう、止まるわけさ。自分でもう、満足と思えばもうそれ以上は伸びないわけ。日々修行だよ。
今の若手組合員なんだけども、私はもうできていると、言うわけよ。これは言ってほしくないね。私でも言ったことないのに、言えないのに。これは、品物を受け取った相手が評価するんであって、自分で評価したらダメ。ネットでも書き込むわけよ。私はもう、名人級なってますとか」
こだわり
渡慶次は、どれくらいの三線を作り、その販路はどうなっているのだろうか。
「注文の、8割、9割はヤマトだから。最初からそんな感じ。お客さんが訪ねて来てオーダーが入って、だから自分の三線作る暇がないわけよ。
最初から注文はずっとあった。若いなりは若いなりの価格。あれは、最初は3万円くらいだったかな。3万から10万程度。だんだん段々評判出て、ヤマトから来るようになった。ヤマトから来るようになったのは20年前くらいだね。ちょうど沖縄ブームの頃、ちゅらさんブームだった」
順調に三線職人としての道を歩む渡慶次。
「営業はしたことはないよ。渡名喜先生からの紹介ということもなかった。これまでスランプは、ないかもわからん。ま、順調に生活はできてるから。
沖縄のことわざに、『スンシ トゥクトゥレー』ってあるでしょう。今は損だけど、将来的に得する。これがモットーといえるかな」
渡慶次が年間製作する三線は約20本。
「私はあんまり作らんよ。三線だけじゃないで、カラクイも作らんといかんし、ウマグヮーも作らんといかんし。三線だけだったら年間では30本くらい作るはずだけど」
手作りにこだわる渡慶次。
1個、1個部品まで手作りする。
「みんなが使うものだから、きれいに、もっと、美しく出さんといかんから。やっぱり、自分で作らないと気が済まない」
材料へのこだわりを語る渡慶次。
「あぁ、あるよ。三線作る時も、この材料では三線作れないとか、イメージがあるわけよ。これ、完成しても大したことないなとか、そんなのはもう作らない、後回し。材料選びから始まり、完成したらどういう風になるかをイメージして作るから、模様もみんな違うさ。形と音のイメージもだいたいわかる」
しかし、危機感も・・・。
「三線、芸能の世界でも、沖縄では飯食っていけない。芸大出ても、仕事がないし、みんなアルバイトでつないでる状態で、三線も同じ。
ものづくりは世間が評価するから、評価が低ければ、その三線店に行かんわけ。だから、一番怖いのは自分が作ったのをどう評価されるか、非常に怖い。だから、ちゃんとしたものを出さないといけないと思っている。これはこだわっている。
他の人はわからんけど、自分自身はそう思っている」
こだわりを持つことの意味を聞いてみた。
「守り続けることが大事。それが誇りにつながる。誇り持たんと、何の仕事でもやっていけない」
大構想
今、三線組合がくるちの杜構想とか、さまざまな事業に取り組んでいる。そういったことに関しての渡慶次の意見は・・・
「三線には600年の歴史がある。それを脈々と受け継いでこられた先人たちがいる。それを私たちも、頑張って残して、三線の文化を続けていかす使命がある。
しかし今、クルチが枯渇して、三線作る材料がなくなってきている。だから今、クルチを植樹して100年後の子孫に残していきたいわけ。
これは非常に気の遠くなる話だけど」
渡慶次たち、三線職人だからこそ、持つ危機感。
「ああ、(危機感は)もちろん持ってる。だからくるちの杜100年プロジェクト in 読谷に関わってる。みんなで協力体制作らんといけないという思いで、組合の方も毎月割り当て3名ぐらい、草刈りに協力している」
このときばかりは、柔和な表情が一変。厳しい表情を垣間見せる渡慶次。三線職人としてだけでなく、沖縄県三線製作事業協同組合 理事長としての側面を垣間見た思いがした。
メッセージ
三線を作る方々に対して、メッセージがないかを聞いてみた。
「同業者にメッセージはちょっと、変だけど・・・。若い人たちもたくさんまではいないけど、子の仕事を職人として頑張ってる若い方々は、地道に、威張らず、自分を褒めないで頑張って欲しいな。結果は購入者がわかるんだから、第三者にしかわからんから。謙虚さがなければダメ。何事もだけど自分で自分を褒めてどうする」
渡慶次の三線の特徴
渡慶次自身が、自分が作った三線の特徴を、もし挙げるとしたら何かあるだろうか。
「私の特徴は、角、角・・・見てわかるかな? ここにシャープ感が出ないとダメ。そういう所が自分の特徴だと思う」
そして、失礼を承知で質問する。渡慶次は自分の三線がわかるか
「ああ、わかるよ。100パーセントわかる。昔作ったのもわかる」
愚問だった。
さらに、渡慶次型のウマやカラクイについて聞いてみた。
「(糸巻きを指さして)この部分。ウマグヮーとカラクイの部分がそれ。これは、ほとんど私がデザインしてる。今はもう、外国産が真似して出回ってるわけよ」
三線の細かい箇所まで、手になじみやすい、使いやすいということにこだわるところも、いかに実演家を大事にしていることがわかる。
「すごく細かい作業だけど、これが私の、理想的な三線の作り方」
これが、渡慶次がいうところのシャープってことなのであろう。
しかし、それでもまだ満足いくものは作れていないという渡慶次。
「まだ満足するものは、できない。イメージはあるよ。
基本的には工芸士だから、あんまり下手な三線は作れないわけよ。話下手で、思っていても言葉では表せない性格だから、まぁその代わり、確かなものを作り出していくことだよね。理想の三線を求めること、それ以外は何もない感じがする」
だからこそ、
「やっぱりずーっと三線は作り続けて行くよ。体が言う事きくまでは頑張らんといけん」
だという。
現在は?
渡慶次の今の楽しみは何だろう。
「楽しみは、仕事を5時過ぎに終えて、シャワーを浴びて、それから栄町行って、友達と飲むこと。歩いたら16分。冬は歩いて行くわけよ。夏歩いては、シャワーを浴びたじきなのに、大量に汗出るからバスで。わったーバス党だよ。だいたい6時半頃から飲み始める。して、9時半、10時には帰ってくるわけ。
でも、この7年くらいの中で、正月と盆以外に2回休んだ事がある。台風!」。
後継者
伝統工芸の世界では、後継者育成の問題が、一番頭を悩ませることだと聞く。
三線職人として、渡慶次の系譜を継ぐ後継者は現れるのだろうか。
「後継者は、これが難しいわかよ。
ウチナーンチュだけど、ヤマトに住んでいる人が勉強しには来るわけよ。年に2回ぐらい。その人に、ここに来てどういう作り方をしているか、見て盗みなさいって言ってある。そして東京の家で作ってきた三線をここに持ってくるから、指導している。八重山にもう一人いる。これも年に3回ぐらい。
でも期待してない。あくまでも、初めからの弟子じゃないさ。毎日来て、私のを見て、盗むのが弟子だけどね。またヤマトの人からは弟子はとらない。今まで3名くらい来てるんだけど、女性もいた。ぜひ教えてくださいって」
その理由はなんだろうか。
「私の持論がある。600年続いた沖縄の三線の歴史がある。沖縄の誇る文化。
ヤマトの人は、言っちゃあ悪いけど、訪ねて、1年くらい習って、もう出来てるって思うわけよ。して、それをそのままヤマトで沖縄の三線ですって言われたら、沖縄の文化が壊れる、崩れていくから。だからヤマトの人から弟子はとらない。
600年継がれた文化だから、ウチナーンチュでやって欲しい。継承して欲しい。
夢、そして目標
2時間近く続いたインタビュー。そろそろ最後の質問に入る。
渡慶次の夢とは?
「私が作った三線は、ヤマトに行ってるけど、海外にはまだ行っていない。私が生きている間に海外に行ってほしいね」
渡慶次の目標は?
「目標・・・目標は、あんまり。
まあ、地道に、人に喜ばれる三線を作るだけ。一生勉強。日々勉強しないと、みんなと同じようなやり方だったら意味がない。他の職人達に負けないような作り方しないと、綺麗な三線作らんと、私はそう思うよ」
仕事中も、栄町や組合事務所に顔を出すときも帽子を被る渡慶次。
「禿げてるからさ、もう。私のトレードマーク。年がら年中帽子は被る。帽子は10くらい持ってるよ。髪がないから、ただ被ってるだけ。
髭と帽子がトレードマークだよ」
インタビューを終えた安心感からか、最後に剽軽な表情を見せた。
多分、製作中は厳しい表情をしているに違いない。
オンとオフの切り替えを、しっかりと行う。オンのときには集中力を切らさない。オフのときには気持ちよく発散する。それが渡慶次の三線作りの秘訣かもしれない。
宮城一春
沖縄県三線製作事業協同組合
支援:沖縄県、公益財団法人沖縄県文化振興会